情況への発言  Sad East Asia

朝日新聞問題の本質


朝日新聞の誤報を巡る騒動をどう捉えるべきか、という質問を受けました。一言でいうと「”反権力”という名の権力 対 権力の犬 とのケンカ」。

”反権力”という名の権力、とはもちろん朝日新聞のこと。反権力という目的のためには手段を選ばぬという体質の典型例。権力の犬とは、週刊文春、新潮、ポスト、それに夕刊フジなんかの情けないマスコミ。飼われている主人にはシッポを振って、主人を批判する者を内外問わずキャンキャン吠える。「売国」だの「反日」だのという知性の無さを丸出しにした批判(とも言えない)は情けない限り。国が間違っていたら「売国」は正しいし、日本政府が間違ってるなら「反日」になるべきだ。

そもそも「日本」を勝手に私物化するんじゃない。日本人も日本思想も多様で重層的で複雑。その一つを勝手に「日本」と名づけて、それ以外を「反日」というのは無知の極みだ。

「ソフトスターリニズム」とは吉本隆明が進歩派に付けた皮肉なレッテルだが、このケンカ、ソフトなスターリンとナツィのヒットラーとの戦争にたとえられるのかもしれない。

なにしろ、週刊誌連合は安倍首相と同じく、従軍慰安婦の存在そのものも、日本の侵略さえもなかったことにしたいのだから。おそらくナツィも侵略ではなかったと言うに違いない。ただこの朝日新聞叩き、「ドレフェス事件」になる恐れを感じてしまう。ハンナ・アーレントはこの事件を、ヨーロッパに全体主義が登場する大きな契機だったとしている。(『全体主義の起源』みすず書房)

東アジアの国家主義に、それなりの民主国家であった日本と韓国が飲み込まれていく、そのきっかけであったと、後に言われるかもしれない。

「反日」や「売国」なんて恥ずかしい言葉を平気で使うマスコミも個人も信用するな。

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語るに落ちるとはこのことだ


2014年7月26日の新聞記事である。日韓国交正常化交渉に関する外交文書の開示を求める訴えで、東京高裁は、竹島問題などについて「我が国が不利益を被る恐れがある」として不開示を認めたという。

つまり、日本国民には「竹島は日本領」という情報意外は与えないということだ。政権と司法がタッグを組んで。これこそ国家主義そのものではないか。客観性もなければ、知る権利もない。おそらく韓国でも同じことが行われている。

日本政府は、はるか南方の岩にセメントをぶち込んで領土と主張し、工事関係者の死亡事故まで起こしている。韓国政府も海上に顔を出すか出さないかの岩に、やぐらを建てて領土と言い張っている。中国政府は南シナ海の浅瀬に建造物まで建てようとしている。

まさしく「悲しき東アジア」ではないか。領土なんて概念を持たなかった世界中の先住民族、そして、領土を超えていこうとしているヨーロッパから、なんたる時代遅れと笑われている。

そのうち、明治の日本政府が、清国との貿易を有利にするために、自ら八重山諸島を譲渡しようとした歴史的事実まで、報じてはいけないと言われるのではないか。

確認しよう。”固有の領土”なんてものはどこにもない。

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死刑廃止に向けて読む本


「殺人者たちの午後」「殺人者たちの午後」
トニー・パーカー著 沢木耕太郎訳
(飛鳥新書)
本体価格 本体1,700円
日本が死刑という制度を無くし、国家であることから少しでも脱却していくべきだと考えてる人たちにも、そして、できれば、「悪い奴は死んで当たり前」と死刑を肯定している、なんと大多数の日本人にこそ読んで欲しい本がある。。

『殺人者たちの午後』(トニー・パーカー著、沢木耕太郎訳、飛鳥新書)である。原題は「Life After Life」という。Lifeには終身刑という意味があり、『終身刑を受けた後の人生』という意味となる。

死刑を廃止したイギリスでは、殺人で有罪となると終身刑だけが言い渡される。ただ仮釈放されることがあり、その仮釈放中の終身刑の受刑者10人へのインタビューで構成されている。

保釈中の受刑者への監視は当然ながら厳しく、保護観察官との定期的な面会はもちろん、仕事につけばその職場に自分が受刑者であることを告げなくてはならない。恋人ができた時にも相手に通告する義務があるという。10人の犯罪はそれぞれで、なかには胸クソの悪くなるような、幼い子への殺人行為もある。そんな殺人者たちを、イギリスという国は、彼らを見張り、支え、何より再犯から社会を守るために、相当の予算をを使い、何より、保護観察官や宗教関係者たちが献身的な関わりを繰り返している。

私は、民主主義発祥の国であると自負するイギリスの民主主義をそれほどには信じてはいない。なにしろ、アメリカと共に、民主的に戦争を決定する国なのだから。せっかくの民主主義という制度でもっといいことを決めろよと言いたくなる。

ではこの死刑廃止に伴う「Life After Life」を支えるという决定はどうか。私にはこれは、「どんな人間もやり直すことができるということを信じたい」という希望を守るためのものだと思えてきた。おそらく何度もその信頼は裏切られ、希望は消されそうになったに違いない。でも彼らはこの制度を守り続けている。希望を守るために。

日本なら、そんな重罪人のために予算を使うな、という声がすぐ挙がるだろう。ああ、そこまで日本人はエコノミックアニマルだったか!民主主義とは、人間を信じるために金を出す社会のことなのだ。

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