情況への発言  Sad East Asia

東アジアの国家主義の現在


日本から「政治」が無くなってしまった。あれだけの事故と「難民」を生み出しながら、原発を止めることもできない。沖縄県民の意思が明確だというのに基地の撤去ひとつできない、やろうともしない。

政治は意思だ。思想性だ。しかし今の日本にあるのは「金もうけ」だけだ。そしてその「金もうけ」する縄張り争いのためのケチな国家主義があるだけだ。だが国家主義、ケチなだけに恐い。

東アジアの国家主義の現状を整理してみよう。「社会」も「経済」も何もかもなくなってただ「国家」だけが残ってるという「純粋国家」が北朝鮮だ。こんな「地獄」を戦後70年間存続させてきたというだけで、西欧とアメリカが声高に言う「人権」が、いかにコトバだけの無力なものであるかを示している。なにしろ西欧の多くの国は北朝鮮と国交さえむすんでいるではないか。

北朝鮮人民にとっては恐怖の国家主義だが、近隣諸国にとってはほとんど脅威はない。韓国の国境を越えたとしても、ガソリンが無いから戦車は止まる。飯が食えないから兵士は動けない。金正恩が”事”を起こせば、それは北朝鮮の自滅でしかない。

だから韓国は、北朝鮮の恐怖を理由に国家主義を形成はできない。そこで反日や反中国で国家主義を煽ろうとするのだが、まあ日本にも石原みたいな変なのがいるように、韓国にもドン・キホーテがいるというくらいの話である。それなりに成熟した社会の政治的無関心はそう簡単には組織化されたりはしない。

同じように成熟した社会のはずの日本はどうか。韓国と違って日本人は「国家主義」に組織化されつつあるように見える。ご存知のように、2015年5月14日、政府は、集団的自衛権を容認し、安倍はこれで「抑止力が強まる」と強調した。その論理なら、もっと抑止力の強まる核兵器保持も容認されるに違いない。

もし日本に臨時政府を名乗る組織があれば「安倍政権の閣僚全員を憲法違反で逮捕せよ」と命令を出すところだ。日本の国家主義がその抑止力を示したい中国はどうだ。言うまでもなく中国は共産党の一党独裁の「まず国家ありき」の国家主義の典型だ。だが北朝鮮とは大きく違って、まず経済が、そして社会が成熟しつつある。

日本に来る外国人旅行者のうち中国人が増えているのもその表われだ。そのマナーをとやかく言う人がいるが、彼らが外国を体験することは無条件にいいことだ。日本が始めた無謀な戦争は、外国のことなんか知りもしなかった偏狭な日本の官僚と軍人が主導したではないか。

とはいえ中国は純然たる国家主義だ。しかし歯止めはある。というのも、中国の指導者たちには後ろめたさがある。自分たちは暴力的に権力を奪取し、それ以来一度も民衆による審判を受けてはいないという後ろめたさだ。これに彼らは自覚的で、だからこそ強圧的に思想信条を弾圧するのだ。もし外国との紛争とでもなれば、それによって民衆の不満が爆発し権力の危機につながりかねないことをよく知っているのだ。中国国家こそ“張り子の虎”なのだ。

その点、安倍の日本のほうが恐い。一応、民主的に(といっても金と権力で情報をコントロールしているエセ民主主義だが)選ばれた政権だというので、歯止めが効かない。なにしろ閣僚の中に高市早苗みたいなネオナチもどきが入っている。それだけで東京オリンピックをボイコットされても当然だが、日本では問題にさえされていない。

希望はあるか。国家主義に組織されていかない政治的無関心層の良識が歯止めにならないか。いまやこの層は圧倒的な多数派だ。それが動けば強い。思想も理念もない、「床屋談義」のようなことしか言えない「維新の党」は、大阪の良識が橋下徹を引きずり降ろした。「うさん臭い」という嗅覚の勝利だ。さあ、次は安倍を引きずり降ろそう。

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「イスラム国」の野蛮とグローバリズムのシステム的野蛮


「イスラム国」を、「国」と呼ぶべきではないという意見がある。思想、信教の自由もない野蛮な「国」を国家として認めることになるというのだ。

だが、この東アジアの北朝鮮も中国も「国」と呼ばれて、国際連合にまで加入しているではないか。

いやこの日本だって思想の自由なんてない。かって長崎市長が「天皇に戦争責任がある」と発言しただけで右翼に鉄砲で撃たれているではないか。

日本では国家が直接野蛮な弾圧をしたりはしない。その代わりに、国家主義に洗脳された国民が自ら暴力的に弾圧するのだ。これは「洗練された野蛮」である。だから、イスラム国こそが国家の原型なのだ。どの国家の成立過程にも、こんな直接的な野蛮があったはずである。だから私は「イスラム国」と呼ぶことにする。

それにしてもイスラム国の野蛮の露出はどう解釈すべきだろうか。

直接的には、イラク戦争以来のアメリカを中心とした国々による空爆という、近代的な暴力への反撥であることは間違いない。さらにその背後には、キリスト教国の長いユダヤ人への差別、抹殺の責任を、イスラエル建国という形で、イスラームに押しつけたことがあるのは言うまでもない。

それなのにそのイスラエルの国旗を背にして勇ましい発言をする日本の首相が、イスラームから反撥を食うのは当然である。少なくとも「イスラム国」の野蛮に口実を与えた。「あたりまえの国」をめざすという安倍の「国」にはイスラームの国々は入っていない。強い西欧の国々にシッポを振っているとしか思えないではないか。

「緑の資本論」さらに深層にあるのは、資本主義の最終形態をめざすグローバリズムと、それに抵抗しようとするイスラームの思想との軋轢である。イスラームへの理解者がほとんどいないこの日本で、中沢新一はそれをズバリと指摘している。『緑の資本論』(ちくま学芸文庫)は「イスラームは資本主義にとってその存在自体が一つの経済学批判である」と論じている。

「イスラム国」によるが虐殺、自爆テロによる被害者が増え続けている。しかしそれは米軍の空爆による民間人被害者には及ぶまい。さらにグローバリズムという、洗練されたシステム的暴力による自殺者の数に比べれば、はるかに少ないはずだ。

イスラームは、シオニズムとグローバリズムの外部にいる被害者であり、先進国の若者たちはその内部にいる被害者である。そう考えねば、彼らが万の単位で「イスラム国」に参加していることの説明はつくまい。

私たちはレヴィ=ストロースによって「文化相対論」という思想を得た。しかし、「イスラム国」はそれを無効にしたかに見える。しかし、文化相対論を認めない非寛容はグローバリズムの側にこそあって、「イスラム国」の野蛮と非寛容は、それに触発されたものと考えるべきだろう。

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