私たちの訴え  Sad East Asia


尖閣も竹島も鳥のもの。
  どんな国家も領有すべきでない


尖閣列島(釣魚島)、竹島(独島)を巡って、日中間、日韓間で領土問題が起こっています。困ったことに、それぞれの”国民”が、国家の主張を信じこんで、自国領だと主張しています。@でも領土とはなんでしょう。文字通り、”占領した土地”です。世界中の陸と海を(利用価値がないとみなされてる南極を除いて)国家が領有しなければならないと私たちは思い込んでいて、こんな絶海の孤島までが争奪の対象になっています。

しかし、土地や海という自然を、国家や個人が私的に所有することは決して当りまえのことではありません。それは近代国家が成立したごく最近のことです。

土地と共にそれを活用して生活してきた人々はそこから追い立てられることになります。特に森が空気のように必要不可欠な生き方をしてきた南米のインディオたちは、絶滅の危機に直面します。

私たちは、土地や海を、国家であれ個人であれ、所有すべきものとは考えない先住民たちの考えに同調します。つまり、尖閣も竹島も、そこを漁場として生活してきた人たちが活用できることこそ大切で、それが保証されれば、どこの領土であろうとかまわないと。南極のように、どこの領土でもないのが健全だと考えます。

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こうした考えは夢物語だと思うでしょうか。そんなことはありません。むしろ、戦争にまで至る可能性のある国家間の問題を解決する最も現実的な方法だと思います。根拠は2つあります。1つはヨーロッパで進行している歴史的実験です。EUの結成は、近代国家を超えていこうとするものです。

日本で語られるEUは、その経済的側面ばかり(エコノミックアニマル健在!)で、EU内部の不協和音ばかりが報じられますが、EUの最大の意義は政治的なものです。なにしろ国境を無くそうとしてるのですから。これは近代国家が、国家であることを自己否定していこうとする画期的なものです。

国境を自由に超えられるだけではありません、かっては何度も敵国同士となったフランスとドイツが、共同の歴史教科書を作ってるなんてことも、”悲しき東アジア”の住民にとっては信じられないことです。

そうした動きの背後には、最も知的で進歩していると自認していたヨーロッパが、ナツィを生み出したことへの絶望があるのですが、絶望がないのが日本とアメリカですね。

考えてみてください。ほぼ経済的レベルが同じ日本と韓国、台湾、香港、シンガポールが、EUのように国境を無くすることは可能なはずですし、日中韓の3国に第三者も加えて共通の歴史教科書を作ることもやろうと思えばできるはずです。

安倍政権を支えているような知性も何もない右翼、ナショナリストが抵抗するでしょうけどね。でも今は21世紀。彼らのような19世紀の考えは通用しません。

もう一つの根拠は文化人類学の分野に求められます。国家による領有、個人による私有という観念を持たなかった”未開人”たちは、じつは国家に至るまで進歩していないのではなく、国家を生み出さないという選択をしたのではないか、と考えられています。

国家どころか、<命令するー服従する>という関係を生まなかったというのです。そしてそのような、権力を生み出さない共同体が、現在でもアマゾンの奥地にはわずかながら残ってるというのです。

熊から王へ、王から神へ、さらに一神教の絶対神へという人類の過程を、進歩とらえる見方の一方で、これを堕落と見る見方もありうるのです。権力と私的所有なき社会には、部族間抗争や拷問に近い通過儀礼があるなど、私たちにはにわかに理解し難い側面を持っていますが、近代国家のような野蛮とは無縁です。

私たちが経験してきた近代国家の罪悪性を超えていくためには、彼ら”未開人”から学ばねばならないはずです。なにしろ同じ人類の一部の人たちが私たちが行くべき未来を示しているように思えるのですから。

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国家による人殺し=戦争と死刑の廃絶から国家の無化へ


21世紀の課題とは何でしょう。それは人類最大の野蛮である戦争、大量殺りくを生み出した近代国家を無化していくことです。ヨーロッパではEUという形でその歴史的第一歩が始まっています。

では”悲しき東アジア”ではどうでしょう。じつは、憲法第9条を持ちえた日本はその第一歩をヨーロッパよりずっと先に踏み出していたといえるでしょう。戦争放棄とは国家が国家であることを自己否定していく画期的なことです。

しかし第9条を肯定する人たちも、それを「平和国家」という言い方をしたところに限界がありました。「平和国家」はありえないのです。ほんとうの平和は、国家という<命令ー服従>という共同体のあり方を無化するよりないのです。

しかもその自己否定の一歩は、今や二歩も三歩も後退し、「ふつうの国家」へと堕落しつつあります。やむをえない条件はあります。なにしろ北朝鮮という人類史上最悪の野蛮国家がいまだに存続し、一党独裁のためなら人権の抑圧だって資本主義の導入だってなんでもやるという中国という国家がすぐそばにあるのですから。

軍事独裁からようやく”民主主義”となった韓国も、ナショナリズムを通して自己を確認する(特に日本に対して)という過程を経ざるをえないという事情にあります。

それらの国に囲まれたこの東アジアで、第9条をここまで守り続けたのは立派なものです。風前の灯ですが。

なぜ自民党の憲法改正案に反対するのか。それは、それじゃ中国のような国になってしまうからです。自民党の憲法案が中華人民共和国憲法とよく似てるということは報道されてますね。日本政府と中国政府は仲が悪そうですが、じつは「立派な国家になろう」という欲望では共通しているのです。石原慎太郎や安倍晋三たちは中国がうらやましくてしようがないんだろうと思いますね。「国のために殺せ、死ね」という命令が通用する国になりたいんですから。

その「国のために殺せ、死ね」を支えるのが、国家によるもう一つの人殺しである死刑制度です。「殺さなければお前を殺す」と言われて人々はやむなく戦場へ向かうのです。現在、死刑制度を廃止している国でも、戦争が起こったらそれらを適用しないという国がたくさんあります。いわば、国民を殺してでも「国家」だけは生き残ろうとしているみたいです。

いまや死刑制度が残り、かつ実行されているのは先進国では日本とアメリカの少数派となった州だけになりました。北朝鮮や中国は一党独裁を守るために、見せしめで死刑を公開で執行するような国です。決して国民がそれを求めてる訳ではありませんから、もし民主化された時、死刑を廃止する可能性はおおいにあると思います。

ところが日本は、まがりなりにも民主主義の国です。その国の80%以上の人が死刑制度を支持していて、凶悪犯罪の犯人を、被害者家族を先頭にして「吊るせ!」と叫んでいるというのは異常です。

2011年、ノルウェイで排外主義者が発砲して、なんと76人が犠牲になった事件がありました。他人種を排斥するものは同じ自国民にも牙を向くことがよく判った事件でしたが、それでも国民から犯人を死刑にせよ、という声は上がっていないといいます。日本とのこの違いはなんだ。

犯罪者への厳罰傾向、「人を殺したものは殺せ」という風潮、凶悪犯に向けられている大衆的パッシングは、すぐに他の物に向けられるでしょう。あたかもそんな対象を求めているかのようです。

死刑に犯罪抑止力がないというのは通説です。それどころか現在の日本では、死刑になりたいので凶悪犯罪を起こすというケースが続発しています

死刑制度を残していてはEUには加盟できません。世界の先進国の中で唯一、日本だけが19世紀へと後戻りして、オールドファッションの「国家」へと向かっているのです。

裁判員制度ができました。裁判の民主化として評価する人がいますがとんでもないと思います。市民を国家悪の共犯に仕立てる制度だと思っています。もし裁判員に選ばれたら、「良心的裁判員拒否」をおすすめします。「良心的兵役拒否」だってあるんですから。

「死刑制度と監獄代用制度があるうちは裁判員にはなりません」と宣言するのです。「監獄代用制度」とは国際的に人権無視と指弾されている日本独特の制度で、冤罪の温床とされているものです。各自で調べてみてください。

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